「なぜ大手総合商社を辞めて、ホッケー選手になったの?」
ホッケー選手になることを決めてから、いつも聞かれます。
僕は決まって「ホッケーをしたくなったから」と答えているのですが、腑に落ちない顔をされることがほとんどです。
会社は僕に、高い給料/充実した福利厚生/無理のない勤務環境/輝かしい大企業のブランド力。
様々なものを与えてくれました。
一方でホッケー選手としての生活は、僕に何を与えてくれるのか。
スポーツ選手という不安定さ/更にマイナースポーツ/見えない将来/実績も無い/実力も未知数/若くない年齢。
ホッケー選手を選ぶ理由は一つも無いように見えます。
この一見不合理に見える決断に至ったワケを理解してもらうには、僕がどのように育って、どういう人間なのかを説明する必要があると思いました。
長くなりますが、とある男が『普通』じゃない決断をした話にお付き合い頂ければと思います。
1990‐2002 自分で言うのもなんですが…「優等生」な幼少期
自分で言うのもなんですが…「優等生」な幼少期
もともと引っ込み思案な性格でいつも誰かの後ろにくっついている腰巾着タイプだった僕。
ある寒い日、幼稚園の送迎バスを待つ間、池に張った氷の上で、何人かの友達が遊んでいました。
ビビりな僕は恐る恐る最後に乗ったのですが、自分のところだけ割れてびしょ濡れに。
当時の僕をよくあらわすエピソードです。
その後、小学校に入学。

小学校入学式
塾や体操教室に通っていたこともあり、勉強と運動がそれなりに出来たので、小学校では無双状態。
テストは一番出来たし、リレーではごぼう抜きで優勝、学級委員に生徒会長と、幼稚園とは打って変わって前に出るタイプに。
中学受験では第一志望の慶應義塾普通部に合格。
今振り返ってもよく出来たこどもだな、と思います笑
与えられたことをコツコツこなす中学時代
野球部に入部
中学入学後、野球部に入部。
強くは無かったけど、練習がキツかったので学校内では一目置かれていた野球部。
そこには自分より運動の出来る奴、頭の良い奴がたくさんいたので、いつの間にか一番になるのは諦めていました。
でも負けず嫌いではあったので、コツコツやれることをやる。
ということで毎日素振りを200-300回振っていて、それを密かな自慢にしていました。

野球部(多分ベンチ)
英語とRPGにハマる
音楽や美術などクリエイティブなことには苦手意識をもっていて、量をこなして結果を出すスタイルでした(というかそれしか出来なかった)。
だから単語や熟語等の暗記で何とかなる英語や、ひたすらレベル上げをすればクリアできるRPGゲームばかりやっていました。
RPGは休みの日には10時間ぶっ続けでプレーしていたこともしょっちゅうでした。
ホッケーに明け暮れる高校時代
野球部退部、ホッケーとの出会い
中学時代にやっていた野球は高校でも続けました。
しかし高校にはスポーツ推薦で入ってくる子もたくさんいてメチャメチャレベルが高かった。(後に僕の同級生は甲子園でベスト8になる!)
それでもめげずに続けるつもりでいましたが、中学時代から悩まされていた肘と膝の痛みが再発。
これだけレベルの高い中で、痛みを抱えて練習をできなければ絶対に試合に出られないと考え、1か月で見切りをつけました。
退部したその日に、中学野球部の先輩でホッケー部に入っていたNさんと電車の中で偶然会いました。
「今日野球部辞めたんですよ」というと「じゃあホッケー部来なよ」と誘ってもらいました。
僕はその時、バイトで金を貯めて、バイクを買って北海道までツーリングするつもりだったのですが、退部したその日にホッケー部に誘われるというシチュエーションに運命を感じ、体験だけと思って練習に参加することに。
スティックでボールを扱うのは本当に難しかったし、腰はメチャメチャ痛くなるし、同期はその時俺を含めて4人しかいなかったけど(※ホッケーは11人でやる)、ホッケーは本当に楽しかった。
ツーリングのことはスパッと忘れて入部を決めます。
谷間の世代
ホッケーは本当に楽しかった。
僕は「量をこなす」スタイルで順調に上達していきました。
3年生の時は主将をやらせてもらいました。
本当にホッケーが楽しくて、週7で練習しても疲れを感じなくて、ずっと練習していました。
ただ、僕の代は色々と恵まれない代だったと思います。
まず部員が少なかった。
新入生に配る部活情報が詰まった冊子があるのですが、先輩がそこにホッケー部の情報を載せ忘れ、仮入部の初日、部員が1人しかこなかったという…
次にチーム事情等で、練習試合をほとんど組めなかった。
圧倒的に試合経験が少なかった。
最後に僕が主将でした。
僕はホッケーが好きすぎて、体力がありすぎて、自分本位でした。
2km走を10本やるなど無茶する割には、部員とはあまりコミュニケーションを取っていませんでした。。
(今も同期会は2年に一度集まれば良いほう。そして全員が集まることは決して無い。)
結局僕らの代はインハイ出場を逃しました。
僕らの1つ上と2つ上は連続してインハイ出場していたし、後輩達はその後10年間、インハイ出場を続けました。
ということで、名実ともに谷間の世代と呼ばれることになります。

高校の同期と
高校のリベンジに燃える大学1-3年生
インハイ出場を逃したことがたまらなく悔しくて、高3の10月から大学の練習に参加。
ひたすらホッケーをしていました。とにかく量、量、量。
一番練習していたから、チーム内ではそれなりの選手になりましたが、それでも一番上手いワケではありませんでした。
日本代表になりたかったけど、どんなプレーが出来たら日本代表になれるのかも分からないままでした。
振り返ると大学生活で自分が上達したと思えたのは2回だけ。
でもチームとしては、大学3年の時に先輩・後輩に恵まれて関東学生リーグで40年ぶりに優勝。
全日本選手権でも5位。
やっぱりホッケーは楽しかった。

2011年 40年振り関東リーグ優勝時
就職活動を通じて初めて自分の人生を考える
突然始まる就活
大学3年の秋になると自然と就職活動、いわゆる就活が始まりました。
周りの同期、友達が就活を始めるのを見て、自分も始めてみる。
自己分析?エントリーシート?どんな会社があるの?仕事って何をするの?
分からないことだらけの就活。
………そもそも自分がやりたいことって何だろう?
幼稚園の頃はカクレンジャーになりたかった。ケインコスギ演じるブラックがカッコよかった。
小学生の頃は大工さんと建築士。大工さんは親の受けがよくなく、建築士は数学が苦手だったからあきらめた。
そのあとはなりたい職業を考えもしなかったし、聞かれもしなかった。
友人の中には、医者、薬剤師、弁護士、会計士など明確に職業を意識して勉強をしている奴らがいた。
凄いな、と思ったけど、俺は体育会だから、と言い訳をした。
結局、自分がやりたいことを分からないまま就活することになった。
エントリーシートに「御社が第一志望です。なぜなら…」と書いてみる。
でも自分がやりたいことも分からないのに、うわっ面の志望理由を書くことほど空しいものは無かった。
でも大多数の同級生は俺と同じように無理やりエントリーシートを書いて、面接を受けていたのだから、俺がやっていたことは『間違って』いなかったはずだ。
………
僕は自分の中にある違和感を押し込めて、そう思い込みました。
何かを期待してインドへ
相変わらず自分がやりたいことは分からなかったけど、日本じゃないところで働きたいという思いがあったから、インドへの旅行を決めました。
英語圏で、比較的近いところで、あわよくば就活のネタにならないかな、というのがインドを選んだ理由。
インドに行って「人生観が変わった」、と言う人も多い。
何か変わるかもしれない、と期待したけれど…
結局、人生観は何一つ変わらなかった。
初日にスマホを失くしても、
道端で牛に角で腹を突かれても、
ガンジス川に飛び込んでも、
壁の穴からすきま風の吹く1泊200円の宿に泊まっても、
新年を異常なまでの腹痛と共に迎えて3日間寝込んでタージマハルに行けなくても、
やっぱり自分のやりたいことは見つかりませんでした。(話のネタにはなったけど)
何がしたい?なぜホッケーをする?
そんなことを考えていると、あんなに夢中だったホッケーにも疑問が湧いてくるようになりました。
ホッケーは一生やれるものじゃないし、ましてや飯を食っていけるものでもない。
将来の役には何も立たない。
そもそも全国優勝を目指しているけど、本気でそれが実現できると思っているのか?
仮に全国優勝出来たとして、だからなんだ?
金がもらえるわけでもない。
1か月も経てば過去の話。
5年も経てば「ああ、そんなこともあったなぁ」
10年経てば忘れられる。
そんなことの為に俺はホッケーに夢中になっていたのか?
僕は何か大きなものを見失っていました。
違和感をごまかすように就職
就活は『成功』
『何をやりたいかは、実際に仕事してみないと分からない』
『何をやりたいか、なんてことはどうでも良い。会社がお前に何を求めているか。それにお前が合わせろ』
『やりたいことを仕事に出来る人間は選ばれた人間だけ。そんな贅沢を言うな』
大人に話を聞けば聞くほどそんな話ばかり聞かされました。
当時の僕は、就職するってそういうことなんだと、自分を納得させました。
何とか「激務」、「デカいことが出来る」、「グローバルに活躍できる」という3つの軸をひねり出し、その軸にハマる業界「コンサルタント」と「総合商社」の2つに絞りました。
僕の第一志望は「コンサルタント」でしたが、軸を決めたのが1月末。外資の大手コンサルは既に選考を終えており、残っていたのは日系のシンクタンクが中心でした。
慶應・体育会というブランド力は強くて、僕は順調に選考を進めます。
4月の中頃、最終面接まで進んだ企業の中で、日系の大手シンクタンク(A)と大手総合商社(B)の2社で迷っていました。
B総合商社の方からは、他の選考を断れば内定を出すと言われました。
何人かに相談しました。
その中で
『コンサルは虚業。実業を行っている商社の方が、現場感覚が身につく』
という話を聞いて第一志望のコンサルでは無く、B総合商社への就職を決めた
…と、当時はそう言っていたし、そう思い込んでいました。
でも、そんなの建前。
Aシンクタンクより、B総合商社の方が、平均給与も良かったし、ブランド力があった。
だからB総合商社への就職を決めた、というのが本音。
周りから羨望の目で見られたし、親も喜んでくれていた。
こうして、僕の就活は『成功』しました。
増す違和感

入社1年目。社内の懇親会にて
2013年4月。僕は総合商社に入社。配属先は社内シンクタンク。
社内シンクタンクというのは、会社の為にマクロ経済分析、業界分析、国際情勢分析を行う部署です。
おそらく僕の選考状況を見た人事が気を利かせたのだと思います。
ただ、商社に入って社内シンクタンクに行きたいという同期は一人もいなかっただろうし、僕も社内シンクタンクの存在など知らなかったので、驚きました。
「実業に関わりたくて商社に入ったのに」と思いましたが、
『何をやりたいか、なんてことはどうでも良い。会社がお前に何を求めているか。それにお前が合わせろ』
という誰かが言った言葉が頭に浮かんで、自分の思いは隠しました。
この頃僕は
『商社に入って良かった』『仕事は楽しい』『今の部署にも満足』
と、周りに言っています。
合コンでもそれなりにウケが良かったし、初めて入った給料で両親と一緒に中華料理を食べた時は、ようやく俺も独り立ちしたのだ、と誇らしく思いました。
就活は『成功』したのだから。
でも、会社に入ってから、ホッケーをしていた頃のような楽しさは感じられませんでした。
インハイに出場出来なくて味わった悔しさも、40年ぶりに関東リーグ優勝した時の喜びもありませんでした。
海外勤務になれば変わる、と思って働き続けました。
運よく3年目にインドへの駐在が決まりましたが、結局インドでも同じでした。
日本のやり方を現地社員と共に実行する。
そうやって行ったインドのビジネスを日本とシンガポールに報告する。
インドにも楽しさや悔しさ、喜びといった、心を動かすものはありませんでした。
就活は本当に『成功』だったのか?
僕はこの会社に合っていないと思い始めました。
しかし、同時に他の会社に勤めたところで自分がイメージするような仕事はできない、とも思いました。
なぜなら、「自分がイメージするような仕事」なんてものは、やりたいことの無い僕には無かったから。
結局のところ、就活に『成功』したと感じたのは、世間が『成功』だと言うからだった。
やりたいことも無いのに、もっともらしい志望理由を並べ立てるのが『間違っていない』のは、世間が『間違っていない』というからだった。
『量』にこだわっていたのは、世間が『量をこなす』ことが尊い※と言うからだった。
僕は重要な決断を自分で下したつもりになって、結局は『誰か』の言う通りにしていただけ。
凍った池に最後に乗って、自分だけびしょ濡れになった幼稚園の頃から何も変わっていませんでした。
今の会社に居場所が無いことは分かったけれど、次の居場所が見つからない。
いよいよ僕は追い込まれていました。
※今でこそ働き方改革など『量をこなす』だけでなく、効率が重要視されつつありますが、僕が育った1990年-2010年ごろは『量をこなす』ことは尊い、とされていました。
《どう生きるのか》、《誰のために生きるのか》
今の会社に居場所が無いと分かってから、自分自身が何をやりたいのか、考え続けました。
「7つの習慣」を読んで、死ぬ時に周りからどう思われたいのかも考えてみたけれど、死んだら何をやっても終わりだと思って余計に空しくなりました。
何をやっても死んだら終わり。それであれば100年後に死んでも、今死んでも同じなんじゃないか?
僕は生きることの意味を知りたくて色々な本を読みました。自己啓発から、ハウツー本、小説、あらゆるジャンルを読み漁りました。
旅行した時もずっと本を読んでいたので、ガイドから景色を観ろよ、ともっともなことを散々愚痴られたけど、無視して読み続けました。
そしてある日。僕は「武士道ジェネレーション」という誉田哲也さんが書いた小説の1節に出会いました。
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…人はなぜ生きるのか、という問いも突き詰めれば、最後には万人がうなずけるような答えではなくなってしまいます。人がその一生に何を成し得ようと、死後そのことに思いを馳せることができるか否かは、誰にも分からない。政治家として偉業を成し遂げようと、罪人となって後世まで悪名を残そうと、死後、その様子を自分で知ることはできない。よしんばそれを知ることが叶うとして、では死後にそのことを振り返りたいから、死んでなお己が影響力を後世に及ぼしたいから、だから人は一所懸命に生きるのかと、そう問えば、それもおそらく、答えは『否』となるでしょう。なぜ、人は生きるのか…
―中略―
なので私は、そういったご相談をいただいたときは必ず、なぜ生きるのかではなく、どう生きるのか、誰のために生きるのか…そうお考えになってはいかがかと、お答えするようにしております
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何をやりたいのか、なぜ生きるのかという問い自体が間違っていた。
その問いに答えは無い。
《どう生きるのか》、《誰のために生きるのか》という問いこそ答えるべき問い。
自分自身が納得の行く生き方をし、その中で大切な人と支えあって生きていく。
その方法を考え、実践することこそが人生なのだ。
心から納得できる考え方に触れ、視界が啓けました。
理想と現実
《どう生きるのか》という問いに答えるのは簡単でした。
答えは熱い気持ちで、挑戦し続ける道を生きること。
つまり、僕にとってホッケー選手としての道を選ぶこと。
《誰のために生きるのか》という問いに答えるのも簡単でした。
答えは自分、家族、心を許せる友人のために生きること。
ただ、その2つを両立させるのが難しかった。
どうやってホッケー選手としての活動をマネタイズするか、どうしたら家族に理解してもらえるか。
日本代表経験も無く、ましてや選手としての活動は大学生活を最後に終えており、選手としての能力は低い。
そして27歳という年齢。
日本代表の年齢は平均24歳前後。若くはない。
どう考えても無謀な挑戦。上手くいく保証も見込みも全く無い。
でも、今この道を選ばなければ絶対に後悔する、と心が訴えかけてくる。
僕は理想と現実の狭間で葛藤していました。
運命の四国旅行
2017年10月、友人夫婦と4人で四国へ日帰り旅行することになりました。
当時僕は兵庫県西宮市に住んでおり、四国は車で行ける距離。
初めての四国をとても楽しみにしていました。
一緒に行く友人夫婦は、僕が結婚するきっかけは与えてくれた二人。
偶然同じ社宅に住んでおり、お互いの家でよくご飯を食べる仲でもありました。
当日、香川で讃岐うどん、四国でカツオの藁焼きを食べ、お土産に日本酒を2升買って、最後に徳島ラーメンを食べて、ほろ酔い、満腹、いい気分で帰路につきました。
全てが完璧。
食べるもの全てがおいしくて、気心知れた4人との考えられる限り最高の週末。
これ以上の週末は中々無い、そう言い切れる日でした。
虚無感、そして決意
しかし淡路島のSAで玉ねぎを買った後、突然車内で虚無感に襲われます。
「これが最高の週末?これ以上の満足感、幸福感をこの先の人生で俺は味わうことができないのか?」
「確かに最高だった。どこからどう見ても最高の週末。でもこの週末には、ホッケーの熱さ、興奮、悔しさを超える感動は無い」
「俺はこのレベルの感動の為だけに、生きることは出来ない!!」
僕は、これまでの生き方を続けることが出来なくなっていました。
そして自分が納得できる生き方を実践する方法は1つしかなく、そこに全てを突っ込むしかないと確信していました。
「俺はホッケー選手になるしかないんだ…‼」
僕はその夜、抑えきれない衝動と共に、雨の中を14km走りました。
不思議なほど落ち着いた気持ちで、そしてこれから始まる何かにワクワクしながら、初めて通る道を駆け抜けました。
ホッケー選手への道
ホッケー選手になる
四国旅行を経て、ホッケー選手になる決意をした僕は、翌日からトレーニングを始めました。
家族と話すにも、まず自分がホッケー選手としていけると確信を持てるところまでコンディションを整えなくてはいけません。
80㎏(172㎝)まで増えた体はホッケー選手のものではありませんでした。
酒は接待など必要な時以外は絶ち、食事、トレーニングで8㎏落としました。
その間にどこでホッケーをするか、資金繰りなど具体的な計画を立てていきます。
どこでホッケーをするかについては迷いなくヨーロッパでやろうと思っていました。
就職活動の時に思い描いていた「グローバル」な環境に身を置いて、アウェイな文化の中でどこまでやれるのか、チャレンジしたいと思ったからです。
何よりEHL(Euro Hockey League)という大きな大会がヨーロッパにはある。
それに出場できるのはヨーロッパにあるクラブチームのみ。絶対に出たい。
どうやったらヨーロッパでホッケーが出来るのか。
当時、唯一日本人でEHL出場経験を持つ方。飛田尚彦さんに連絡を取りました。
飛田さんとの再会
飛田さんは偶然にも同じ兵庫県に住んでいて、大阪駅で会うことになりました。
飛田さんには大学3、4年の時に慶應大学にコーチに来ていただいていたので、僕がどんな選手かは大体分かってくれています。
最初はヨーロッパのクラブをどのように探したかとか、どんな生活だったのか、などを聞くつもりでした。
しかし話を聞くにつれ、飛田さんに諸々のサポートをお願いした方が良いと感じ、トレーニングやクラブチーム探しなどをお願いすることにしました。
その時に箕島ホッケークラブや天理大学といった、素晴らしいチームを紹介してもらい、高いレベルでホッケー出来ることになりました。
家族との話し合い
ある程度の方向性を固めながら、妻に話すことが出来たのは2018年2月でした。
もちろん反対されました。
ホッケー選手になんてなれるのか
金を稼げるのか
ホッケー選手を辞めた後はどうするのか
色々な話し合いをしましたが、結局、自分がどう生きたいかということ、それをどのように成り立たせるか。
会社を辞めて27歳からホッケー選手というキャリアは誰も通ったことが無い道。
論理的に説明することは出来ませんでした。
結局僕は自分の想いを伝えることしか出来ず、はたから見たら滑稽だったと思います。
ただ、自分の想いが自分に対して嘘をついていないということだけは分かっていたので、押し通しました。
2019年7月末に退職。
もう後戻りはできなくなりました。
天理大学での練習
ホッケー選手としてやっていくには、トップレベルでの練習が必要だったので、天理大学で練習させていただくことに。
天理大学は全国大会で最多優勝回数を誇る名門チーム。
やはりレベルが高かった。
ストローク、レシーブ、シュート。
それらの基本技を繋ぐ足さばき。
そのスピード感。
ここでは書き切れないほど、たくさんのことを学ばせて頂きました。
部外者の僕を温かく受け入れて頂いた天理大学の皆さんには頭が上がりません。
本当にありがとうございました。

天理大学の皆さんと
ドイツでの活動
HTHCで悪戦苦闘
そうした中、ドイツ Bundesliga1部のHarvestehuder THCでプレーさせてもらうことが決まりました。
それはもう、めちゃめちゃうれしかった。
比喩表現ではなく、本当に人生の歯車が動き出す音が聞こえました。
2018年8月にドイツ/ハンブルクへ。
もちろんスタメンを取るつもりで行きましたが、現実は甘くありませんでした。
高い技術、運動量に慣れないドイツ語と生活。何から手を付けて良いかわからないような状況。
結局1部の試合には出られないまま3カ月が終わりました。
もうこのチームで出場機会を得ることは出来ない。

HTHCでの試合風景
通用しなかった悔しさと、これからどうするかという不安で頭がいっぱいになって眠れない夜もありました。
ホッケー選手の道を諦めることも思い浮かびました。
ただ、そんな状況でもホッケーは楽しかった。
挑戦することの難しさを教えてくれて、同時に熱い気持ちにさせてくれていた。
辞めようとは思いませんでした。
THK Rissenでの挑戦
HTHCでの挑戦を終えた僕は、一度日本に帰国。
これまでのやり方では通用しないと思った僕は、取り組み方を変えました。
トレーニング方法、食事、心の持ち方。
色々な方の助けを借りながら、ホッケー以外のあらゆる角度から自分を見直しました。
その後、HTHCのヘッドコーチの紹介を受け、2019年4月から挑戦の舞台をドイツBundesliga2部のTHK Rissenというチームに移しています。
昨シーズン、チームは2部で10チーム中8位。
何とか降格をまぬがれた、という状況から飛躍を目指して活動中。
僕自身は、日々成長の手ごたえと、新たな壁に挑戦するワクワクを感じることが出来ています。
新たなチームと日々感じている手応え。
それをどうやって結果につなげていくか。
僕はハンブルクで挑戦の日々を送っています。